雲祥寺23世妹 柴田みち子


 太宰治の疎開、来町に触発されてか、戦後金木町に「金木文化会」が組織された。十一月の発会式の祝辞を兼ねた講演で、「本を読む事は大切な事です。読んだことは川の流れのように過ぎ去りますが、川底に砂金が沈むように、何かひとつ、ひとつぶでも心に残るものです…」と語ったことを思い出す。太宰は文化会の創作部会員に、上京を勧めるなどして励まし、陰に陽に協力を惜しまなかった。男女を問わず、みんなに慕われ、会にとって有難い顧問のような存在であった。太宰は長兄に本を借りによく雲祥寺にみえた。私は兄に言われてトルストイだの主に外国文学を手渡したことを記憶している。

 特に忘れられない思い出は、自作を朗読してくれた日の事である「中の間」と呼んでいた雲祥寺の座敷に数名の会員を集め、脱稿したばかりの戯曲「冬の花火」を登場人物になりきって、声色をつかい抑揚をつけ、よく透る声で読んだ。皆うっとり神妙に聞いていたが、本人も熱中して隣の湯呑に手を延ばし、他人のお茶を飲んでしまうので、お茶汲みをしていた私(当時十三歳)は笑いをこらえながらもお茶をこぼさないかとハラハラした。兄達は、ラストシーンがいいなあ、などとそれぞれ感想をのべ合った。彼らは太宰のことを修治さんとも太宰治とも呼ばず、「ダザイジ」と呼び、それが「通」であると言い、自分たちも「馬寒」「耕雨」「露芳」・・・などと俳号で呼び合っていた。

 その頃金木劇場へ東京から音大の学生達が食料を求めて演奏旅行にやって来たことがある。太宰は演奏者がトルコ行進曲を弾き間違えたのをいち早く聞きとがめ大声でヤジった。隣に座っていた露芳さんは「メグサクテありした(恥ずかしかった)」と後に語っていた。

 そのうち文化会も、流行歌を唄ったり、社交ダンスや舞踊、楽器演奏等で賑やかになり、いよいよ金木劇場で発表会を開く事になった。もう寺の本堂や座敷ではたりず、位牌堂まで使用して、みんなは練習に余念がなかった。そんな或る日、何か何時もと様子が違う正三兄が、「ダザイジ今日、東京さ帰った」とぽつんと言って背を丸めそそくさと自分の部屋へ引っ込んでしまった。兄の淋しそうな後姿が今も目に残っている。昭和二十一年十一月の事であった。

 上京後の太宰の活躍を喜んでいたのもつかの間、昭和二十三年六月悲しい知らせを聞く事になった。八月十三日、金木文化会主催で「太宰治を偲ぶ会」が雲祥寺で行われ、小野正文氏の講演と演劇部員だった藤沢美志子さんが朗読する「桜桃」に一同しんみりと耳を傾け、時のたつのも忘れて、太宰の死について感想をのべたり思い出を語ったりしながら、心から冥福を祈った。それは同時に、まるで自分たちの青春時代に別れを告げるお通夜のようでもあった。太宰が金木にもたらした「金木文化会」も太宰の死と共に消えた。