第二十三世住職 重興無為哲三大和尚(1920.10.29-2006.12.13)
太宰治の幼年期、少年期を書いた処女作として評価の高い小説「思ひ出」の中に、雲祥寺に触れた部分がある。文中に地獄極楽の御絵掛地とあるのは、十王曼荼羅のことで七軸になっており、極楽の絵は無く地獄の絵だけである。一説に江戸初期の終わりか中期の始め頃の作と言われ、極彩色の古い掛け軸である。当時は正月、盆以外の日は公開しなかったから、そのいづれかの日の太宰の思い出であろう。
お寺の裏は小高い墓地云々とあるが、実際は平地である。卒堵婆は卒塔婆の事。満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪とは、一般に後生車と言って、不慮の死、当時では馬に蹴られたとか、川に落ちて死亡したとかいう童男童女の供養のために建立されるもので、数多くの子どもたちに廻してもらうことによって成仏できると信じられていた。

幼い太宰を寺に連れて来た子守りのたけは、雲祥寺の檀家近村永太郎の四女で、明治三十一年生まれであるから、太宰より十一歳年上と言うことになる。寺の広い境内は近所の子どもたちの安全な遊び場であり、たけの実家の近村家は寺の近くであったので、たけ自身も幼い時から遊びに来ていた筈。それで太宰治(当時は修治、しゅうちゃ)を連れて来て近所の子どもたちといろいろ遊びに興じたと想像できよう。津軽の方言を用いた美しい詩「雀こ」も、境内での遊びが背景になっているのではないかと思う。
その後太宰が雲祥寺へ姿を見せたのは、敗戦の昭和二十年である。寺の住職は私の兄正三(明治四十五年生まれ)で、彼はクラシック音楽を聞くことが何よりも好きで、学生時代から購入したレコードを多数秘蔵していた。戦時中は敵性音楽と言われていたから、ひとり隠れて聞く程度であったが、終戦となって誰に遠慮することもなくなり、今夜はベートーベン、来週はモーツアルトといった具合に、同好者を集めてレコードコンサートを始めた。太宰が来訪したのは、その年の晩秋ではなかったかと思う。長いあいだ精神的抑圧を感じていた面々であるから、こころゆくまで名曲を聞くことで、充分解放感を味わったのは当然であった。文武両道と言うが、武の時代は終わった。これからは文の時代だ、と言う想念から会合を重ねているうちに、誰からとなく金木町に文化会を作ろうという気運が生まれてきたのも自然のなりゆきであった。
雲祥寺本堂で、金木町文化会の発会式を開いたのは昭和二十一年三月三日であった。その時、太宰は「文化とは何ぞや。」と題して講演した。「文化とは優である。優は人を憂うと書く。人を憂えざるものは文化人にあらず」と弁舌巧みに話しかけた。会するもの百人を超え、二十歳前後の若い男女で本堂満員の盛況を呈した。同年七月一日発行の「金木文化」創刊号が手許にあるが、その扉に「金木文化」に贈る言葉 汝を愛し汝を憎む とあり、会の組織の概要に総務部/文芸部=俳句、詩、短歌、創作/音楽部=声楽、管弦楽器/演劇部=舞踊、劇、脚本/美術部=書道、絵画/山岳部=運動一般/女性文化と、紹介している。それから半世紀を過ぎたいま、太宰治、一戸正三、その他鬼籍に入った人多く、当時を思い起こして、感無量である。

青森県政策推進室発行「マイあおもり」4月号より (年度不明)
